2014年12月 9日

11月のブログー神無月に寄せて(げんだいのsっふきょう

   11月のブログ」―神無月に寄せて

今月は神無月ですので宗教について述べてみたと思います。

この11月に伊勢神宮へ遷宮後の神宮を見るため参拝に行きました。三重県出身の私にとっていわば田舎に帰るようなものです。地元のため、子供の頃は正月に家族揃ってお参りに行きました。その後はたまたま行く人があれば同行する程度で疎遠になっていました。

今回行ってみて感じたことは、土曜日でも参拝客が多いこと、随分参拝道が整備されたということです。整備されると共に、幼い時の参拝時に感じた壮厳さが欠けて観光化、世俗化したような感を受けました。その原因の一つは、伊勢湾台風の影響で多数の呪霊何百年という巨木が倒れたことにあるでしょう。それまで、空を見上げても巨木で上が見えないほどでしたが、台風後行った時青空がクッキリ見えて周りもすっきりしているのに驚いたものでした。

また、伊勢神宮は、長い伝統を誇り、天皇陛下も適宜参拝される日本の宗教の原点となる神宮でありますが、年を増すに連れて、信仰というか敬うという感じが少なくなり、お参りして家族の健康、安全を祈るためだけということになっています。案内人の説明を聞いてもなるほどと思うのみであり、信仰心の無さかもしれませんが心の奥に訴えるような何かを感じません。今回、若い人が神社に最敬礼をしている光景を多く見て、伝統は消えていないのだなと感心しました。

昔は、伊勢神宮に関わる日本精神,神道というものに対して反発を感じたものですが今は年齢のせいかそのような感はなくなり一つの観光対象として見るようになりました。

 神社、仏閣にくると、宗教とは私たちにとって何なのかという問いが起こります、私は宗教とは人間の弱さの反映であり、その弱さを癒し充してくれるものとして宗教があると理解します。宗教とは強制されるものではなく自らが選ぶものだと思います。しかし宗教を広めることも信者の務めであるでしょう。学生時代には、プロテスタントの教会に通うこともあり、聖書を勉強したく聖書研究会に入っていましたが、祈りと称して信仰を強要されるので嫌気がさしてやめました。たまたま入ったイエズス会の学生寮では、自らには厳しくするが信仰を強制することがなく楽でした。カトリック教徒が戦闘精神に溢れているのには感心し、よく神父さんと議論しましたが最後は信じるか信じないかというところに行きつきますが、議論自体は有意義でした。そのため、カトリックに対してはどうしても評価が高くなります。

 日本にいれば宗教は、過去のものかと思われますが、目を世界に転じると、宗教こそが世界を動かす原動力となり、世界の一体化を阻んでいるように思われます。アメリカのキリスト教の原理主義、ティーパーティ、イスラム教、その中のスンニー派とシーア派の対立、ISISの問題等が国際問題の主要な位置を占めています。中世において最大の犠牲者を出した30年戦争の原因は宗教にあります。その関連で近世の世界戦争は宗教戦争であるといえます。

 宗教観による違いがよくわかる例として、例えば、イスラム国やタリバンが偶像破壊として文化遺跡を破壊しているニュースを見て、我々は、野蛮な行為と思います。しかしながら、この野蛮行為を当人達は人々を迷妄から救う道だと考えています。つまり使命を持って人々を迷妄から救い啓蒙しなければならないと考えて実践しています。宗教観による違いで共通項を見つけるのは困難です。つまり何を信じるかどうかによるからであります。こうなると結論は論理の問題ではなく、情念、心の問題となり、信仰を持たぬ者には理解不可能というのが結論となってしまいます。

森島 中小企業 ISO支援オフィス


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